よいお年を

よいお年を、と子どもが言った。

バスの運転手に、バスを降りるときだった。

得意げな顔に、笑みを漏らしながら、よく言えたねと、バス停で頭を撫でた。

先ほど保育園で、あけましておめでとう、と先生に言い、それはまだだよ、今は良いお年をだよと教えられたばかりで、彼は実践したのだ。

彼の距離感はまだ独特で、通りすがりの人に挨拶をすることは減ったものの、親としてはその人に?という人に突然声をかけることがあって驚く。

彼の中の分け隔てなさに感心しつつ、自分が子どもだったころの“平等でなくてはいけない”という強迫観念じみた思想も思い出す。その思想は長らく自分にべったりと貼り付いて取れなかった。

私の子も、いつかそれで苦しむのだろうか。

私の子以外の子をもし何かの理由で面倒を見なくてはならなくなったら、私は葛藤を覚えるだろう。それでも葛藤を覚えることを、当然だと受け入れられるだろう。今の自分であれば。葛藤に苦しむことは確かとして。

 

無邪気に見えるものの、子どもは思いのほか周りに気を遣っている。

今年の秋に田舎にある実家に行った折、テンション高く喋り続けていた子どもが夜9時になると、私たち三人家族に用意された二階の部屋に行こう、と繰り返し口にした。三人で二階に上がると、笑顔に力が抜け、いつものテンションに戻った。

二年ぶりくらいに会う私の両親に気を遣って元気で溌溂な孫らしい振る舞いをしていたのだろう。6歳の子どもでも、十分に社会的な側面を持っていると知ったひとコマだった。

 

世界に放り出されたころの、何かにつけて泣いて主張するころはとっくに過ぎて、頬を膨らましたり、憎まれ口をたたいたり、優しさを分け与えたりすることを彼はもうできるのだ。

 

子どもの成長に思いを巡らしながら、年を越すことになりそうだ。

来年の4月には子どもは小学生になる。子ども自身うまくやっていけるかより、親の私がちゃんとふるまえるかの方が心配だったりする。

年末年始は最近やる気を出している子どもの文字の練習と、ぷよぷよテトリス2の修行と読書に勤しみます。

 

それでは良いお年をお過ごしください。