幡野さんの連載終了について考えたこと(2)
(3)SNS上での文脈について
幡野さんの連載終了の記事(最終回)が出て、とあるイベントで彼と一緒に出ていた人の多くは「良い連載でした」「連載が終わって残念です」、もしくは炎上した記事に対して庇うような意味合いのことばを引用リツイートで投稿していた。
彼らの投稿を見て、私はがっかりした。
がっかりしたあとに、「なぜがっかりしたのだろう」としばらく考えて以下の結論にたどり着いた。
- 幡野さんと一緒にイベントに出ていた人=幡野さんと仲が良い人
- 幡野さんと仲が良い人は、炎上した記事のときは反応していなかった
- 最終回にだけ、好意的な言葉や庇う言葉を贈っていた
- 幡野さんと仲が良い人は、炎上しているときは触らぬ神に祟りなしと近寄らなかったけれど腹の中では幡野さんの記事を肯定していて、最終回はここぞとばかりに好意を寄せて庇った
- 幡野さんと仲が良い人は、あの記事を肯定していたのか、がっかりだ
冷静になって上記の流れを読むと、幡野さんと仲が良いと括っている人は仲が良いとは限らず、中には医者もおり、コロナの渦中で忙しすぎて何も見ていなかった等々私の判断が誤っている可能性については気づけた。
でも明らかに庇っている人もいて、そうして庇った人たちはあっという間にその投稿を消した。
彼らと括った人たちもそれぞれなんだろう、と思いつつSNSの難しさが自分の中で一つ可視化された。
- 意見を表明しないことは、“意見を表明しなかった”という姿勢・意味を残すことになる
- その上で、“どこで意見表明をしたか”、“どこで意見表明をしなかったか”によって、SNS上に文脈が作り上げられてしまう
SNSってこわいね。
意見表明をしたか・しなかったか、というのは政治の話で出てくるやつだと思っていた。身近なところで言うと社内政治はあるけれど、この身近でちっちゃな政治でも、巻き込まれると大きなため息を吐くくらいには疲弊する。
それがSNSという基本スタンス“気楽”なものが、文脈を現すとなると、面倒くさい、というのが正直なところだ。
興味深かったのは、おかざき真里さんが幡野さんの最終回の引用リツイートで、
私にはよくわからないのだけれど、「人生相談」というコンテンツはエンタメじゃなかったのかな。正さは確かに他にあるだろうけれど、正しくないものが時に人を救うことだってあるのではないかな?
と書いたことだ。
好きな漫画家さんだったから発見したときは愕然とした。幡野さんの炎上記事を擁護しているようにしか見えなかったし、エンタメであれば何をしてもいいと言っているようにも見えたからだ。
その後の展開からそういう意味ではなかったと判明したし*1、私が考えている表現者としての姿勢とほとんど同じということも垣間見えたから、胸を撫で下ろした。
前述のSNS上での文脈という観点からも、幡野さんと同じイベントにいた人が炎上記事に対して批判する人がいた、というのは発見だったし、何かしらのキーになりそうに見えた。
ここで表現の話に戻る。
エンターテインメントを含めた表現には、いつも観客を傷つける可能性を秘めている。
いくら傷つける意図はなかったとしても、どれだけの配慮をしても傷つけることはある。だから、表現者はその業を負う。
幡野さんは、表現が誰かを傷つけることを知らなかったのだろうか。
疑問は残るし、結論は出ない。
でも今回のテーマで書こうと思ったことはこれでお終いです。
他にも思うところはあったけれど、今書けるのはここまでだ。
とっ散らかったな……と反省が残るけれど、少しくらいは誰かに伝わるだろうか。
最後に所感を少し。
一連の出来事を経て、自分の意見表明の大切さを認識できた、というのは意義深いことだった。オードリー・タンが本の中で、インプットした分アウトプットするよう説いているのを読んでこのブログを始めたところもある。
今回の件は重たいインプットであったけれど、内容は何であれアウトプットできたのもよかった。
大学生のときに受けた講義で映画『シンドラーのリスト』への批判があったという話を聞いた。
あの映画に描かれなかった戦争の側面について。
ストーリーからこぼれ落ちが出来事は、記憶からも零れ落ちていく、ということ。
語られたこと、語られなかったこと、口を噤んだこと、声を上げたこと。
それぞれの行為の意味について、今は出口もなく、考え続けている。
ではこの辺で。