幡野さんの連載終了について考えたこと(1)

cakesでの幡野さんの人生相談が連載終了になった。

いろいろ思うところはあるけれど、3点に絞って考え込んだことを並べてみようと思う。

 

(1)表現することについて

(2)誤魔化すことについて

(3)SNS上での文脈

 

 (1)表現することについて

2回目の炎上から、連載終了までの一連の流れを追って改めて表現することについて考えさせられた。

以下に箇条書きするのは、表現での前提だ。

  1. 表現するというのは、どんな表現であっても表現者は表現の媒体(場所)に依存する。作品の内容もあるし、複数の作品を並べるときは作品選びや作品の順も考える。
  2. 作品と作者の関係性は、観客が一人であれば、一対一になるけれど、たいていはそうではなく、一対多だ。 
  3. 表現されたものは、観たり読んだりした人のものになる。かみ砕かれ、その人の一部になる。

炎上後の幡野さんのコメントで、以下のように書いた。

『「女の子はこの回答で絶望したと思います」とかいうツイートも見かけましたが、全くそういうことはないです。』『私は幼馴染に何となく申し訳ない気持ちがあったというか、なにも出来なくてごめんねなんて思ってたのですが、幡野さんのおかげで少し気持ちが軽くなりました。』と言っていただけました。

なので良し、ということらしい。

しかし、前提2と対照すると「一対多の場所で、何言ってんだ?」になる。

人生相談の回答が相談者だけのものであれば、わざわざ開かれた場所に回答を置く必要はない。開かれた場所に置かれた回答は表現そのもので、読んだ人たちそれぞれのものとして、前提3のように読んだ人たちのものになる。

だから、けっして相談者がよいと言ったのだから良しという論理にはならない。

もしその論理を使うのであれば「どうぞ一対一の場所でやってください」だ。

*1

 

にしても不思議なのは、幡野さんの本業は写真家ということだ。

私が挙げた前提なんて、嫌でも体感していると思うんだけど。

個人に依頼された写真と、公共の場に展示される写真は必然的に変わる。

展示する際だって、その場所によって展示する写真を変える。自分の伝えたいものが、観客に伝わるように。来る人を大まかに想定して展示を組み立てることだって往々にしてあるはずだ。

テレビだって深夜時間とゴールデンタイムで出す番組を分けている。

表現者は嫌でも観客を意識せざるを得ない。

ときには大きな批判を想定しながらも、“その表現”を“ここ”に置かざるを得ないことだってあるだろう。

そういう意味で、写真家の幡野さんは人生相談の回答を表現の一つとは思っていなかったのかなあ、とも思う。

 それこそありきたりなテンプレートで安全な回答であれば、固有性は消えて表現とは言えないものだったのかもしれないけれど、そうではなかったんでしょう?

 

(2)誤魔化すことについて

2回目に炎上した回答について私が最も感情的になったのは、幡野さんも編集部も相談者に友人が受けている暴力の事実を隠そうとしたことだ。

それらを容認する意図はありませんが、DVやネグレクトや虐待という言葉の使用はあえて控えました。

と炎上後のコメントに書いていあり、回答の際に、相談者に友人が受けているものが暴力であることを隠そうとしていたことが読み取れる。

 誤魔化して対応をしないことが何を招くのか。

 

声を上げた人たちの中に具体的な体験を話す人はいなかったけれど、自分の経験を想起する人もいたんじゃないかな、と思う。

以下に、今回の件で実際に思い出した私の経験について列挙する。

 

A)小学生の時に教師にいやがらせを受け、周囲の大人がその事実を知りながら対応をしなかったのだと知ったときのこと。

B)中学生の時に同級生が殺人を起こし、そのときも大人は口を閉ざし、何の説明もケアもしなかったこと。

C)高校生の時に「〇〇が性的虐待を受けてどうしたらいいかわからない」と同級生の□□に相談されたこと。

AとBは、大人が対応をせず、なかったことにしたという事例だ。

Cのケースは、友人が受けた暴力について間接的ではあるけれど、知ったというものだ。今回の相談者のケースに近い。あいにく私はAとBの経験があり、Cの高校生のときには大人に相談するという手段をなきものにしていた。言うまでもないが、大人への不信が原因だ。

もしCのとき、もし大人の誰かに相談して、曖昧にはぐらかされ「本人のことは最終的に本人の責任なんだから自分のしあわせについて考えなさい」と言われていたら、怒り狂ったかもしれない。

または、「相談して気持ちが楽になりました」と笑顔を貼り付けて大人の前から去ったかもしれない。  

送られてきた相談文で、相談者の背景が深く知れるとは思わない。

だからこそ、回答が大人への信頼の綱を切る最後の一撃になる可能性を孕んでいる。

その一撃がどれくらい危ういものか。

キミが恋愛をするときに、友達の彼みたいな人は避ければいいよ

回答の最後の一文が優しさに見えるかどうかは相手次第だ。

 誤魔化してうやむやにすること、対応しないことが何を招くのか。

もう少し想像力を働かせてほしかったし、相談者が私みたいな子じゃないといいな、と切に思う。

 

(過去のことを思い出すと正直しんどい。愚痴)

 

(長くなったので続きます)

*1:だからと言って“万人に受け入れられるものを”という気はない。ここで言うのはあの場は一対一ではなかったよね?当然幡野さんも編集部も知っていたよね?という問いかけである。